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量子コンピューティングと材料科学の未来【後編】量子マテリアルと量子アルゴリズム

本連載記事では、量子マテリアルが量子コンピューティングの進展と新材料開発にどう関連するかを前後編にて解説します。
前編では、代表的な量子マテリアルであるトポロジカル材料、高温超伝導体、量子スピン液体の特性と応用例の紹介を通じて量子マテリアルとその技術革新の可能性を解説しました。
後編では、量子マテリアルの開発・設計において量子コンピュータが重要となる理由と、今後の利用形態について解説します。


物理モデルと量子アルゴリズム

量子マテリアルを設計するためには、量子ゆらぎ、量子もつれ、トポロジカルな性質が重要な役割を果たす物質を理論的かつ統一的に理解することが望ましいと考えられます。そのための有効な手法の一つは、物理モデルをコンピュータによってシミュレーションすることです。物性物理においてこのような系は量子多体問題と呼ばれ、ハバードモデル(Hubbard model)やハイゼンベルグモデル(Heisenberg model)といった代表的な物理モデルが知られています[1,2]。しかし、これらの物理モデルは、中規模な問題サイズでさえ古典コンピュータで解くことが困難であることが知られています。その理由として、系のサイズに伴う量子状態の指数関数的な増加に加え、強い電子相関系、負符号問題、量子もつれ、複雑な相図などが挙げられます。このような複雑な問題を効率的に解く手法として、量子コンピューティングが期待されています。

物理モデル

量子マテリアルを理解するための第一歩として、いくつかの物理モデルが知られています。例えば、ハバードモデルはやや単純化された物理モデルでありながらも、金属–絶縁体の転移、超伝導体、磁性、トポロジカルな秩序などを幅広い物理現象を記述することができます。したがって、これらの物理モデルをコンピュータでシミュレーションすることにより、高温超電導体、トポロジカル材料、量子スピン液体といった量子マテリアルの理論的解明の足掛かりになると考えられています。しかし、これらの物理モデルは行列のサイズが指数関数的に大きくなり、古典コンピュータで解こうとすると計算が困難になってしまうという課題があります[3]。そのため、量子コンピュータ上で動作するためのアルゴリズム(量子アルゴリズム)の研究開発に期待が寄せられています。

ハバードモデルは格子モデルの一つであり、そのサイズを「n×nグリッド」あるいは「mサイト」のように表現します。古典コンピュータの最高記録の一つとして、512ノードのスーパーコンピュータを用いて22サイトのハバードモデルを計算した報告があります[4]。このため、25サイトを量子コンピュータで計算することができるかどうかが具体的な目標として考えられることもあります[5]。

変分量子固有値ソルバー

変分量子固有値ソルバー(Variational Quantum Eigensolver: VQE)は、ノイズのある中規模な量子コンピュータ(Noisy Intermediate-Scale Quantum: NISQ)に実装するための量子アルゴリズムの一つです。この量子アルゴリズムは、古典コンピュータと組み合わせたハイブリッドなアプローチであり、変分原理に基づいています[6]。VQEは、量子化学における分子の基底状態エネルギーの計算が主なユースケースですが、材料科学において、ハバードモデルに対してもVQEが適用されています。
 
2020年にCadeらは、量子コンピューティング・シミュレーターを用いて12サイトのハバードモデルをVQEによって計算しました[3]。このシミュレーションではCPUだけでなく、NVIDIA社のGPUも使用されました。また、2022年にStanisicらは、超電導方式量子コンピュータの16量子ビットを用いて8サイトのハバードモデルをVQEによって計算しました[7]。後者の計算では、NISQで実行するために様々な実装上の工夫がなされていました。第一に、ハミルトニアン変分仮設(Hamiltonian Variational Ansatz: HVA)を効率化し、変分パラメータ数を減少させました。第二に、効率の良い変分オプティマイザーを使用しました。第三に、ノイズの影響を軽減するために誤り軽減法(error mitigation)を利用しました。また、ハバードモデルだけでなく、カゴメ格子における反強磁性ハイゼンベルグモデルのVQE計算も報告されています[8]。このように、シミュレーターやNISQを利用し、ハバードモデルやハイゼンベルグモデルの量子コンピューティングが行われつつあります。

量子位相推定

量子位相推定は、誤り訂正のある量子コンピュータ(Fault-Tolerant Quantum Computer: FTQC)に実装するための量子アルゴリズムです。量子位相推定はユニタリー演算(行列)の固有値を推定する手法であり、様々なFTQC量子アルゴリズムのサブルーチンとして機能します。では、現在のFTQCの開発はどのような状況なのでしょうか。量子ハードウェアベンダー各社が発表しているロードマップ[9–12]から判断すると2026~2030年にかけて初期のFTQCが実現されていくと予想されます。例えば、中性原子方式のQuEra Computingは、2026年に100論理量子ビットを実現すると発表し[9]、またシリコンフォトニクスによるフュージョンベース方式のPsiQuantumは2027年に100万物理量子ビット(数百の論理量子ビットに相当)を実現するとしています[10]。このように、量子コンピューティング業界はFTQCの実現に向けて開発が進められています。一方で、この記事を執筆している時点では、誤り訂正のある量子ハードウェアは一般ユーザーにとってアクセスが限定的であると言えます。
 
ではFTQCが未だ実現していない場合、どのような研究が可能でしょうか。しばしば行われるアプローチとして、リソース推定(resource estimates)と呼ばれる考え方があります。ある物理モデルをある量子アルゴリズムを用いて計算する場合、その演算に必要となる量子ビットの数、量子ゲートの数(具体的には、トフォリゲートやTゲートのカウント)、実行時間などを推定する研究が行われています。例えば、2021年にCampbellは、8×8グリッド(64サイト)のハバードモデルに対してリソース推定を行いました[13]。この研究では、64サイトの計算には162論理量子ビットが必要であり、トフォリゲートが18万カウント、Tゲートが170万カウントの演算が少なくとも必要になると推定されました。一方、2024年にAgrawalらは、ハバードモデルの7×7サイトをFTQCで計算した場合のリソース推定を行い、400論理量子ビットが必要だと見積もりました[14]。2024年にYoshiokaらは、ハバードモデルとハイゼンベルグモデルに対する詳細なリソース推定を行い、凝縮系物理は量子優位性を示すための初期の舞台を提供するだろうと述べ、そのクロスオーバーはハバードモデルのサイズが10×10グリッド(100サイト)を超えたあたりだろうと予測しました[15]。このように、量子コンピューティング業界ではFTQC時代への準備が着々と進められています。

量子コンピューティングの活用

現在、量子コンピューティングの普及とエコシステムの形成に向けて、様々な量子リソースやハイブリッドアーキテクチャが一般ユーザーに提供され始めています。量子古典ハイブリッドアーキテクチャでは、量子コンピュータ(NISQ)と古典コンピュータを組み合わせて使用することで、両者の強みを生かしつつ、NISQの性能を最大限に引き出すことを目指します。例えば、VQEアルゴリズムでは量子回路と古典的な最適化アルゴリズムを組み合わせることで、分子や固体のエネルギー計算が可能になります。また、量子HPCプラットフォームは、量子コンピュータをハイパフォーマンスコンピューティング(HPC)のワークフローに統合させ、効率的なコンピューティングを行えるようにします[16]。2024年に理化学研究所と大阪大学は、スーパーコンピュータ「富岳」と量子コンピュータ「叡」の連携利用を実証し、原理の異なるコンピュータ間の連携利用によって計算可能領域が拡大する可能性を示しました[17]。
 
量子コンピューティング・シミュレーターは、量子アルゴリズムの開発とテストにおいて重要な役割を果たします。実際の量子ハードウェアを使用せずに、量子アルゴリズムの性能を評価することが可能です。2022年に、産業技術総合研究所は米NVIDIA社と共同で、AI橋渡しクラウド(ABCI)上で512GPUを用いた世界最速の41量子ビット量子回路シミュレーションを実現しました[18]。現在、一般ユーザーがこのシミュレーターを利用することが可能になっています。さらに、QCaaS(Quantum Computing as a Service)は、クラウドベースで量子コンピューティングリソースを提供するサービスであり、研究者や企業が高価な量子ハードウェアを購入せずに量子コンピューティングの利点を享受できるようにします。

まとめと今後の展開

高温超伝導体やトポロジカル材料、量子スピン液体といった量子マテリアルの研究開発は、実社会のエネルギー効率の向上や低消費電力の次世代デバイスの発展に貢献することが期待されます。これらの材料は、これまでの半導体材料とは異なる原理で機能する材料であり、新しい産業をもたらす可能性があります。VQEや量子位相推定といった量子アルゴリズムは、量子マテリアルのための物理モデルをシミュレーションする上で重要な量子アルゴリズムです。特にハバードモデルやハイゼンベルグモデルを解くためのFTQCアルゴリズムは、一定の数の論理量子ビットが実現した場合には、従来の古典コンピュータに対して実用的優位性があると推定されています。
 
FTQCが一般ユーザーに普及するようになれば、このような物理モデルを解くための様々な量子ソフトウェアが開発されていくでしょう。将来的には、より複雑な物理モデルを解くための量子アプリケーションが発展し、量子マテリアルの開発や設計にとって重要なツールになることが期待されます。量子ソフトウェアは、古典コンピュータによる従来の量子化学ソフトウェアや第一原理計算ソフトウェアの課題を克服し、複雑な電子相互作用を持つ量子マテリアルをより効率的に解析することに貢献するでしょう。これにより、量子コンピュータは量子マテリアルの開発・設計にとって重要な計算資源になっていくことが期待されます。
 
ソフトウェアサービス事業者にとっても、量子ソフトウェアや量子アプリケーションは新たなビジネスチャンスとなるでしょう。企業や研究機関と連携し、新たなソリューションを提供することが期待されます。また、国内市場に特化したカスタマイズやサポートを通じて、競争優位性を確保することも重要となります。量子コンピュータの活用が進むことで、ソフトウェアサービス事業者は新たな技術領域のリーダーシップを取る機会を得る可能性があります。

参考文献
[1] Oftelie, L. B., Urbanek, M., Metcalf, M. et al. Simulating quantum materials with digital quantum computers. Quantum Sci. Tech. 6, 043002 (2021).
[2] Alexeev, Y., Amsler, M., Barroca, M.A. et al. Quantum-centric supercomputing for materials science: A perspective on challenges and future directions. Future Gener. Comput. Syst. 160, 666–710 (2024).
[3] Cade, C., Mineh, L., Montanaro, A. et al. Strategies for solving the Fermi-Hubbard model on near-term quantum computers. Phys. Rev. B 102, 235122 (2020).
[4] Yamada, S., Imamura, T., Machida, M. 16.447 tflops and 159-billion-dimensional exact-diagonalization for trapped fermion-hubbard model on the earth simulator. In SC'05: Proceedings of the 2005 ACM/IEEE Conference on Supercomputing IEEE, 2005. p. 44–44.
[5] Cai, Z. Resource estimation for quantum variational simulations of the Hubbard model. Phys. Rev. Appl. 14, 014059 (2020).
[6] Tillya, J., Chen, H., Cao, S. et al. The variational quantum eigensolver: a review of methods and best practices. Phys. Rep. 986, 1–128 (2022).
[7] Stanisic, S., Bosse, J.L., Gambetta, F.M. et al. Observing ground-state properties of the Fermi-Hubbard model using a scalable algorithm on a quantum computer. Nat. Commun. 13, 5743 (2022).
[8] Bosse, J.L., Montanaro, A. Probing ground-state properties of the kagome antiferromagnetic Heisenberg model using the variational quantum eigensolver. Phys. Rev. B 105, 094409 (2022).
[9] https://www.hpcwire.com/off-the-wire/quera-unveils-ambitious-roadmap-for-error-corrected-quantum-computers-through-2026/ (accessed Sep. 6, 2024)
[10] https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/02884/070800004/ (accessed Sep. 6, 2024)
[11] https://alice-bob.com/newsroom/alice-bob-funded-to-build-fault-tolerant-qunatum-computer-proqcima/ (accessed Sep. 6, 2024)
[12] https://www.quantinuum.com/blog/quantinuum-accelerates-the-path-to-universal-fault-tolerant-quantum-computing-supports-microsofts-ai-and-quantum-powered-compute-platform-and-the-path-to-a-quantum-supercomputer (accessed Sep. 10, 2024)
[13] Campbell, E.T. Early fault-tolerant simulations of the Hubbard model. Quantum Sci. Tech. 7, 015007 (2021).
[14] Agrawal, A.A., Wilson, T.L., Saadatmand, S.N. et al. Quantifying fault tolerant simulation of strongly correlated systems using the Fermi-Hubbard model. arXiv preprint arXiv:2406.06511 (2024).
[15] Yoshioka, N., Okubo, T., Suzuki, Y. et al. Hunting for quantum-classical crossover in condensed matter problems. npj Quantum Inf. 10, 45 (2024).
[16] Beck, T., Baroni, A., Bennink, R. et al. Integrating quantum computing resources into scientific HPC ecosystems. Future Gener. Comput. Syst. 161, 11–25 (2024).
[17] https://www.riken.jp/pr/news/2024/20240510_1/index.html (accessed Sep. 6, 2024)
[18] https://www.digiarc.aist.go.jp/publication/quantum/20221219.html (accessed Sep. 6, 2024)

執筆者

鈴木 鉄兵
SCSK株式会社 技術戦略本部 先進技術部
早稲田大学大学院で第一原理分子動力学シミュレーションの分野で博士(工学)を取得。同大学で助手・客員講師として分子シミュレーションや量子化学分野で研究。(国研)物質・材料研究機構や(国研)理化学研究所でマテリアルズ・インフォマティクスや電子状態計算の研究に従事し、学術論文を執筆。IT業界では科学技術計算や深層学習、GPU関連の業務に従事。2019年から量子業界に移り、量子スタートアップ(株)Quemixで量子AIの研究開発を経て、2021年にSCSK(株)に入社。量子チーム・リーダーとしてプロジェクト管理、市場動向調査、アルゴリズム研究、論文発表、特許出願などに従事。


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