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量子コンピューティングと材料科学の未来【前編】次世代技術の鍵を握る量子マテリアル

量子コンピューティングは、材料科学や計算科学の分野において革新的な進展をもたらす可能性を秘めています。特に材料科学の領域は、量子コンピューティングのユースケースの有力候補の一つとして期待されています[1, 2]。本連載記事では、量子マテリアルに焦点を当て、量子コンピューティングの進展と新材料開発がどのように関わり、それが産業界やソフトウェア事業とどのように関連するのかを、前後編にわたり解説します。具体的には以下の観点について議論します。

  1. 量子マテリアルとは何か? どのような産業応用が期待されているのか?【前編】

  2. なぜ、量子マテリアルの開発・設計にとって量子コンピュータが重要となっていくのか?【後編】

  3. 今後、量子コンピュータはどのような形で利用されていくのか?【後編】

これらを通じて、量子コンピューティングと材料科学の未来について、少しでも理解が深まれば幸いです。


量子マテリアルとは?

量子マテリアル(quantum materials)は、量子力学的な効果が顕著に現れる材料のことを指します。これらの材料は、量子力学でしか説明できない奇怪な特性(exotic properties)を持ち、新しい産業を生み出す可能性を持っています。

ミクロな視点では、全ての素材は量子力学の法則に従います。では、全ての素材が量子マテリアルと呼ばれるのかというと、そうではありません。本記事中では、量子マテリアルを「量子特有の奇怪な現象を持ち、技術革新をもたらす可能性のある固体[3]」と呼ぶことにします。この「量子特有の奇怪な現象」とは、量子ゆらぎ、量子もつれ、波動関数のトポロジカルな性質などによって発現する量子力学的な現象のことです。これらの物理現象は非常に複雑で、物理学の未解決問題を多く含んでいます。その中でも、特に技術革新をもたらす可能性のある素材を「量子マテリアル」と呼んでいます。

なぜ、量子マテリアルが産業界にとって重要なのでしょうか。その背景として、長らくエレクトロニクス産業を支えてきた半導体技術が限界に達しつつあるという認識があります。いわゆる「ムーアの法則」の限界に到達しているという考え方です。半導体技術は主にシリコンという素材をベースにしており、トランジスタの微細化を進めると、これ以上の小型化が困難な領域に到達します。このため、現在のデータセンターでは、特定の演算に特化したGPUを活用し、並列計算によるアクセラレーテッド・コンピューティング(accelerated computing)が主流になりつつあります。一方で、このアプローチは、電力消費量が膨大になるという課題も存在します。こういった背景から「これまでの動作原理とは全く異なる動作原理で動く素材はないか?」という新たな動機が生まれ、その答えとして量子マテリアルや量子コンピュータが期待されているのです。

では、量子マテリアルにはどのようなものがあり、どのような応用可能性があるのでしょうか。以下に挙げた、3つの代表的な量子マテリアル[3]をご紹介します。

トポロジカル材料

トポロジー(topology)とは、位相幾何学とも呼ばれる数学の一分野で、図形の連続的な変形の下でも保存される性質に着目した幾何学のことです。トポロジー的な観点では、コーヒーカップとドーナッツは同等であると説明されます。トポロジーの概念によって物性が説明される物質群をトポロジカル材料と呼びます。例えば、トポロジカル絶縁体は内部(バルク)は絶縁体でありながら、表面や端部(エッジ)では電流が流れる特性を持ちます。このような物質は、「金属か絶縁体か」という従来の分類ではうまく説明できません。

トポロジカル材料の特性は、次世代のデバイス、高感度なセンサー技術、量子コンピュータの基盤技術として期待されています。例えば、トポロジカル絶縁体の表面状態を利用することで、低消費電力なデバイスの開発が期待されます。また、トポロジカル超伝導体は、マヨラナフェルミオンという特異な粒子を利用した安定な量子ビットの実現に向けた素材として期待され、基礎研究が進められています。

高温超伝導体

超伝導は、電気抵抗が完全に消失する性質を持ち、量子力学的な効果が顕著に現れた現象と言えます。一般に超伝導は、極低温度で発現する秩序状態です。高温超伝導体は、従来の超伝導体に対して比較的高い温度で超伝導現象を示す材料です。例えば、銅酸化物超伝導体(cuprate superconductors)の中には転移温度が液体窒素の沸点(約-196°C)を超える物質も存在するため、冷却コストの大幅な削減が期待されます。一方、銅酸化物超伝導体が超伝導を発現するメカニズムについては、未だ十分な解明に至っていません。

高温超伝導体は、電力の損失がゼロになるため、実社会のエネルギー効率向上に貢献することが期待されています。具体的な応用例としては、送電線や変圧器、リニアモーターカー、医療用の磁気共鳴画像装置(MRI)、核融合超伝導トカマク装置などが挙げられます。

量子スピン液体

スピンとは、磁石のもとになる微視的な性質で、量子力学的な概念です。通常の磁性体では、スピンは規則的に配置されて強磁性や反強磁性のような秩序を形成しますが、量子スピン液体(quantum spin liquid)ではスピンが長距離にわたって相関を持ちながらも、特定の秩序を持たない状態が続きます。この状態は、フラストレーションと呼ばれる相互作用の競合によって引き起こされ、スピンが一様に整列することを阻害します。その結果として、スピンが「液体」のように振る舞います。量子スピン液体は、新しいクラスのトポロジカル秩序状態です。

量子スピン液体は、量子情報処理やエネルギー変換、スピントロニクス、量子コンピュータといった分野での応用が期待されています。したがって、量子スピン液体のさらなる研究と理解は、次世代の量子技術の発展に向けた重要なステップとなるでしょう。

まとめ

前編では、代表的な量子マテリアルであるトポロジカル材料、高温超伝導体、量子スピン液体の特性と応用例の紹介を通じて量子マテリアルとその技術革新の可能性を解説しました。
後編では、量子マテリアルの開発・設計において量子コンピュータが重要となる理由と、今後の利用形態について解説していきます。

https://tech.scsk.jp/n/ne7e6c933d9f6

参考文献
[1] Oftelie, L. B., Urbanek, M., Metcalf, M. et al. Simulating quantum materials with digital quantum computers. Quantum Sci. Tech. 6, 043002 (2021).
[2] Alexeev, Y., Amsler, M., Barroca, M.A. et al. Quantum-centric supercomputing for materials science: A perspective on challenges and future directions. Future Gener. Comput. Syst. 160, 666–710 (2024).
[3] U.S. Department of Energy, Office of Science. (2016). Basic Research Needs Workshop on Quantum Materials for Energy Relevant Technology.

執筆者

鈴木 鉄兵
SCSK株式会社 技術戦略本部 先進技術部
早稲田大学大学院で第一原理分子動力学シミュレーションの分野で博士(工学)を取得。同大学で助手・客員講師として分子シミュレーションや量子化学分野で研究。(国研)物質・材料研究機構や(国研)理化学研究所でマテリアルズ・インフォマティクスや電子状態計算の研究に従事し、学術論文を執筆。IT業界では科学技術計算や深層学習、GPU関連の業務に従事。2019年から量子業界に移り、量子スタートアップ(株)Quemixで量子AIの研究開発を経て、2021年にSCSK(株)に入社。量子チーム・リーダーとしてプロジェクト管理、市場動向調査、アルゴリズム研究、論文発表、特許出願などに従事。


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